父の葬儀は私がパパ大好きっ娘だったので、ほぼ私がやりたいようにやったと思う。
病院のキーパーソンも私だった。
父の時は「スライドショーとか寄せ書きとか司会とか豪華すぎ、セットになってるオプションいらない」と不満げだったので今度は姉2に任せることにした。
姉2は母と共依存と言ってもいいくらいベッタリだった。でも「わかんない」と言って決断するのは嫌な人なので、結局私が検索した近いところにした。
父の時は昔互助会に入っていた積み立てもあり、代行してくれたりとか説明も多くて至れり尽くせりだったと思う。
姉2が電話したところは、わりと自力でやるような部分が多く、そっけない印象を持った。まあ姉がいいならそれでいい。
葬儀会社のお迎えが来るまでに、母を清浄・着替えさせてもらったあと、看護師さんに簡易お化粧セットをもらった。
最近は痛いと常に顔をしかめていることが多かった母が、普通に寝ている時の顔になっていた。
娘三人で母の顔に化粧。お肌のノリが悪くてあまり定着しなかった。
そのあと母と姉2が葬儀会社の車で自宅へ戻り、私と他は電車で帰った。駅で別れたダンナがあとで差し入れのおにぎりを届けてくれて、ありがたかった。
そして葬儀のプラン決め。やっぱり姉は困ると「わかんない」と自分で決めたがらない。
なんとかお花が多めのシンプルな祭壇に、司会は進行もあるから必要だろう、と決めていった。
一番困ったのは精進落としなど食事の準備。何人残ってくれるか確定しない……。「ご飯食べていく?」とか聞きづらいし、聞いても答えてくれない。結局当日に個数がわかればいいということで、当日に確認することにした。
それから遺影。父の時はすごくいい写真があったので、それと決めていたものがっあった。
母は外ではサングラスをしていることが多く、使える写真があまりない。
結局父の遺影写真の隣にいる母の写真を使った。同じ時なのに父よりもずいぶん若く見えるが仕方ない。
親戚に通夜と告別式の連絡をすると、伯母の告別式と母の通夜が同じ日になったので、だいたい「一緒に行ったんだねえ」と話すことになった。会場を一緒にしていたら親戚は楽だったかな。でもうちからはちょっと遠い。やっぱり近いのが一番いい。
伯母の通夜には代表して姉1に行ってもらった。
葬儀費用、父の時の互助会で積み立てた分をのぞくと、金額はほぼ同じ。ちなみにダンナ父の時ともそんなに変わらない。
互助会の分、至れり尽くせりで楽だったんだなあと思った。
ダンナ母が弔電をダンナに頼んだということで、なぜか文章は私が選ぶことに。
(葬儀中に自分で選んだ文を聞いて、泣いた。)
副葬品を考える。読みかけの本や眼鏡、そして父の手紙。
父が母に渡した最後のプレゼントは香水だった。まだ使いかけがあったので、父が亡くなってしばらくしてから開けたら入っていた手紙。
これが最後になるだろう、今までありがとう、という手紙だった。全員で泣いた。
これは母に持っていってもらおう。香水もつけた。
ダンナの差し入れを食べて、その日は寝ずの番をして、翌朝私は自宅へ戻った。
光らない黒い靴がないのでそれを買いに走った。
母のお迎えの車が来るのに合わせて実家に戻り、母を見送ったら自転車で葬儀場へ。
花いっぱいの祭壇もきれいで、家族用のお部屋もちょっとした旅館のようで良かった。
安置するのを確認。立ち会いが選べた。これは父の時にはなかった。見届けたあと姉1に残ってもらい、また家に戻って遅いご飯を食べた。
通夜までの間の時間に叔父2と従兄が来てすぐ帰ってしまったらしく、会えずに残念だった。
通夜は亡くなった伯母のところの従兄が来てくれた。
伯母のところは男3人、うちは女3人であまり交流はなかったが、昔話や介護話がはずんだ。
その夜葬儀場には姉2が残り、私は帰って寝た。ダンナが夜勤じゃない日で良かった。一人だったら眠れなかったかも。
姉2は早朝に戻り、母に好物のお弁当を作っていた。これも副葬品。
告別式は叔父夫婦が来てくれた。
母の名前は漢字がないので、戒名が気になっていた。なるほどそうきたか、という字を使っていた。
告別式は本当にシンプル。スタッフは丁寧でとても良かった。
何度経験しても斎場でドアが閉まる瞬間は一番つらい。
母は本当にただ寝てるような表情と質感だった。
精進落としでは叔父が母の若い頃や、父と結婚した頃の話をしてくれた。初耳の話も多かった。戦中戦後の苦労した世代。
叔父は母とは年の差があってて、子供の頃から「おじさん」ではなく「おにいちゃん」と呼んでいたけど、さすがに叔父も年をとったなと思った。
まあまあ近くには住んでいるので、これからはもっと顔を出そうと思った。
翌日からは仕事が休める間に、役所関係や年金関係に走り回った。位牌の手配、入院と検査の予約のキャンセルもした。
透析の病院、訪問看護師や入浴サービス、ケアマネにも挨拶に行った。
皆さん、これで縁が切れるのが残念なくらい本当にいい人たちで良くしてもらった。本当にありがたかった。
実家に通わなくていい日々。
まだ実家に行くための時間に勝手に目が覚める。
仕事が終わって「寄り道せずに早く帰らなきゃ」とか、休みの日に「お昼をもう食べとかないと」、みたいな意識がまだ残っている。
職場近くの神社で天神祭りの動画撮影をした。
ふと、いつも動画を撮っている理由が、あまり外に出ない母に外の風景を見せるためだったことを思い出した。
もう見せる人がいないんだと思って、また目がうるんだ。
介護と仕事ストレスもあって深夜に飲食したりで、この1年で激太りした。
2日に一回やってた介護という名の筋トレもやらなくなったので、ちょっとヤバいと思っている。
実家の片づけとかまだまだやることがあるけど、ちょっとずつこの数年できなかったことのやり方を思い出そうと思っている。
長文,読ませていただきました。ありがとうございました。心よりお悔やみ申し上げます。
実は8月17日に義母が他界し,ここ何日も悲しみがぶり返しては涙ぐむ妻の憔悴ぶりをそばで見ておりまして,雫さんの文章一つひとつが心に染み入ております。
お義母さま、心よりお悔やみ申し上げます。
まだまだしばらく思い出してはあれやこれや悔んだり寂しくなったりするだろうと思います。
仕事やボランティアなど予定をたくさん入れて、忙しくするようにしています。
お母様お悔やみ申し上げます。宝塚観劇でお母様にも挨拶させていただいたことを思い出しました。
雫さんもお身体お大事になさってくださいね。
ご無沙汰しております。
コロナ以降、介護もあって宝塚観劇にまったく行かなくなってしまいました。
その節はありがとうございました。
あの頃は自分も母も若かったなあとしんみり思い出します。
介護が終わってホッとしたり、逆に寂しくなったりとか、あの時こうしておけばとの後悔したりとかが入り混じって苦しくなると思いますが、ご両親は天国でも雫様の笑顔が見たいと思われます。
再びその日が来ることを願ってます。
ありがとうございます。
お出かけができない、いけないことのような気がしていましたが、それがちょっとずつできるようになってきました。
またぼちぼちですが、お店紹介していこうと思っています。