2010年01月17日

震災大時計

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震災大時計

毎年震災について書いてるわけではないのですが、昨日神戸新聞のドラマを観たのでちょっと感想ついでに色々思い出したことなどを。
こちらは阪神西宮駅前、グルメシティの横にある時計。西宮中央商店街にあった時計で、震災発生後の時間で止まっています。何も知らない人が通って見たら現在時間だと思ってしまいそう。

今年は商店主・ともも・今高生などが中心になって、この時計の周りに笹を立て「生きろ」という字を書いた紙で飾りました。その写真も撮りに行きたかったんだけど。神戸新聞の記事でどうぞ。



さて、ドラマの「神戸新聞の7日間」ですが、もうちょっと時間かけて作って欲しかったな。
翔くんが神戸弁のセリフ移しできるくらいの時間かけて欲しかった。嵐の忙しさを考えると、神戸ロケもないだろうと思ってたけど。まあそんな感じでしたね。
翔くんは震災を知らない世代に観てもらうには最適だったかもしれないけど、関ジャニ∞とかでも良かったんじゃ?∞にも神戸っ子はいないが。
他の人の台本はちゃんと神戸弁なのにね。

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以下は自分的な語り。

用海地域は比較的被害が少なかったんですよね。町内も潰れた家はあったけど、亡くなった人はいないと聞いた。
その日、母と姉は壊れた物の片付けを。私と父はポリタンクを自転車に乗せ、水を求め水道局へ。室川町のポンプ場にも行った。
それから二手に分かれて、知っている限りのコンビニをまわった。

商店街のアーケードは危ない状態だった。何も考えずそこを自転車で通り抜けた。えべっさんの北側にあるローソンに行きたかったから。
めぼしい物は残っておらず、オレオクッキーを買ったことだけ覚えている。
その後、アーケードは落ちた。
学生時代バイトしていたイズミヤのフロアはぺしゃんこになった。
地震発生が数年前で、バイトしている時間帯にこの地震が起こっていたらどうだったろうと考えた。
自転車で走っている時に、アーケードは落ちたかもしれない。

母はとにかく食料品を買い込む人だったので、食べる物にはあまり困らなかったと思う。
姉夫婦が大阪から食料や水を持ってきてくれた。
宮水井戸を持つ酒造会社が井戸を開放してくれた。毎朝ポリタンクを抱えて水をもらいに行くのが日課になった。
1週間後、会社からそろそろ出てこないかと電話があった。
電車も動き出し、翌日からは仕事に行こうと思い、大阪の姉の家に風呂を借りにいった。
防災頭巾がわりのモコモコダウンジャケットにジーンズ、背負うリュック、1週間洗ってない頭。
大阪にはそんな姿の人は一人もいなくて、ごく普通の日常が流れていた。公園で遊ぶ子供。スーパーで買い物をする主婦。あまりのギャップに驚く。

会社は神戸の中心地にある。被害も受けた。近くにある出入り業者さんのビルも倒れた。
電車と代替バスでの通勤。大きな余震が起こったら死ぬなあと思いながら、毎日会社が近づくにつれて気分が悪くなった。
会社に着くといつも空でえづいていた。避難所から通勤してる人もいる中、誰にも話せなかった。

以前、森山未來くんがやっていた震災の番組で、もっとすごい被災者がいるので、自分のレベルの体験は何も話せなくなる心境を語っていた。あれはものすごく共感できた。


もういろんな事を忘れちゃった。


阪神淡路大震災記念 人と防災未来センター
神戸メリケンパークと震災メモリアルパーク
越水浄水場の桜通り抜け(西宮震災記念碑公園)
神戸新聞会館再び

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posted by 雫 at 19:57| 兵庫 ☀| Comment(8) | TrackBack(0) | 西宮語り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
読んでいて
当時の様子が昨日のことのように
思い出されました。
私は当時住江町に住んでいました。
まだ暗い中、電話しても誰も出ない実家に
直行し家族の無事を確認した後
彼の実家の大阪へ行く途中
阪神高速が折れて下の車が押しつぶされているのを
発見しました。
誰も乗っておらず脱出した後のようでした。
大阪は被害らしい被害もなく
彼の家族も平常通り。
それから西宮へ戻り、テレビで徐々に
被害の大きさを知ることになるのでした。
住まいは全壊判定を受け二人で実家に身を寄せました。
水道が開通したのは4月でした。
家族を失わず、住む所にも困らなかった
私は恵まれた被災者だったと思います。
体育館やテント、車などで長い間
寝泊りされていた方々がすぐ側にいながら
私は実家のこたつでテレビを見たりできたのですから。


確かに関ジャニでも良かったかも?
個人的には櫻井君のファンなので嬉しかったですが^^


Posted by nodo at 2010年01月17日 23:54
直接遭ったわけではありませんが,
妻の実家が西宮市内にあって被災したので,
当時住んでいた横浜からいろいろ物資を抱えて
届けにきたのを思い出します。

大阪ではまったくの日常,
阪急で西に向かうと車窓には
徐々にひどくなって行く町の様子...。
北口から線路沿いにずーっと歩いて,
ガラスを踏まないように下を見ながら
物が落ちてこないように上を見ながら...。

水がほとんど干上がった樋ノ池で
それでもコップで水を掬っていた人...。

ハイチの悲惨な状況に触れると,
やりきれない気分になります。
Posted by ピイ at 2010年01月18日 00:24
「もういろんなことを忘れちゃった」と書いておられますが、その方が良いのではと思います。私は長田区菅原通にいました。震災の事は思い出さないようにしています。この時期はニュースも新聞も特番も見ません。櫻井君は好きですが・・カバチを見ます。
Posted by haruharu at 2010年01月18日 10:24
私も大阪へリュック背負って阪神DPへ食料を買出しに行きましたよ〜。普通にOLがハイヒールで通勤しているのを見て、電車で20分程の距離なのに、、なんで普通なのよ!!なんでじろじろ見るのよ!!て叫びたくなったのを思いだしていました。忘れてはいけないけれど忘れたい、、事もあるよね、、
Posted by ししまる at 2010年01月18日 20:26
nodoさん
電気はわりとはやく復旧したんで、無事だったテレビをつけてびっくりでした。まさか神戸があんなことになってるとは。神戸は地震がないと思っていたので、もっと遠くの震源が更にひどいことになってるんだと思っていました。
水道は遅かったですね。しばらくは水道が復旧した地区の銭湯に通ってました。ガスが一番最後だったなあ。

嵐は翔君とニノがジュニア時代からお気に入りでした♪
Posted by 雫 at 2010年01月18日 23:14
ピイさん
私、線路は歩いていないのですが、帰りの代替バスがいつになく人が多かったので三宮から深江まで歩いた事があります。歩けない道を迂回していたら、バスを待つのとどっちが早かったかな〜ってくらい時間がかかりました。

あの頃は代替バスの行列を見ただけで、ここまで何台で乗れる、1時間待ち、とか読めたものでした。
Posted by 雫 at 2010年01月18日 23:36
haruharuさん
忘れることも必要ですね。
私もこのドラマ以外はほとんどニュースも観ませんでした。
もっと色々覚えていたはずなのに、忘れようとしているわけではないのに、忘れていきます。
Posted by 雫 at 2010年01月18日 23:50
ししまるさん
当時姉の家は大阪でも東の方だったので、ほぼ何事もなかったような場所でした。
電車が進むにつれ、なんて被災地から来たのが丸分かりなんだろうかと思いましたね〜。
Posted by 雫 at 2010年01月19日 00:10
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